HAPMONIYM #1
[MoM'n' DaD 1993]

Wriner Notes
Written by 松山晋也
昔のコスモロジィ-マコと灰野を巡るわずかばかりの想い出と伝聞 マジカルパワーマコと言う名前をに初めて出会ったのはいつのことだったろうか。
多分、70年代半ば、高校生の頃、NHK-TVの「未来への遺産」の音楽担当者としてクレジットされたのを見たのが最初ではなかったか。
TVドキュメンタリーのBGMというのが信じられないほど素晴しいサウンド、そしてマジカルパワーマコという名前の奇抜さに強烈な印象を受けたのを憶えている。 70年代半ばといえば、ちょっとまともなロック ファンなら、このマジカルパワーマコというのがどんな男なのか、どれだけ異質なミュージシャンなのかを知っていたはずだが、当時の僕はまだ、明けてもくれてもバッハやドビュッシーばかりに聴き狂っている田舎のクラシック小僧で、ロックに関してはようやくキングクリムゾンやイエスといったプログレッシブロックバンドのアルバムを友達に勧められて聴き始めていた頃だった。 当然、日本のロックなんてほとんど知らなかったし、ことさら関心もなかった。だからこのマジカル云々というのが、男なのか女なのか、個人なのかグループなのか、日本人なのか外国人なのか、そんなことすら知らなかった。
マコの正体を知ったのは、それから数年後のことである。 80年位だっただろうか、当時住んでいた吉祥寺のとある輸入&中古レコード店で、ニューウェーブのエサ箱をあさっていた僕の耳に、突然、マコの音楽は飛び込んできた。 既に、わずかばかりの食費以外は全てレコードにつぎ込むといういっぱしのヴィニールジャンキーに成長していた僕は、その音楽のただならぬ迫力とクオリティの高さにドギモを抜かれ、カウンターに詰め寄り店員に問いただした。
それが、マコのメジャーからのデビューアルバム「マジカルパワー」である。 インドネシアのケチャの様な土俗的なコーラスに、ネコのなき声、太鼓の音、電波、「テメーコノヤロー」とか何とかいうどなり声etc、様々な音がコラージュされ、更にズーズー弁のナレーションと津軽三味線の達者な演奏が続く、、、。 どの曲も、余りに奇想天外で、野蛮で、しかもイマジネイションに満ちている。 おまけに、先の「コノヤロー」云々のどなり声は灰野敬二だというではないか。 灰野については、伝説のライブハウス、吉祥寺マイナーで既に何度か観ており、ファンを自認していたこともあって、興奮の度は余計に高まるばかり。 ジャケットに「Polydor」とだけデカくロゴが打たれたそのレコードが欲しかったが、店員は「余りに貴重すぎて、売るわけにはいかない」と言う。
結局、マコの音楽をまとに聴いたのは、その時1回きりである。 そして今日まで、その1stアルバムには1度もお目にかからなかった。
その後、灰野敬二と知己を得、個人的に親しく話しをするようになったため、彼の口からもマコのことを何度か聞くことができた。 灰野によると、2人が初めて出会ったのは72年頃らしい。 当時、既に日本最初のフリーインプロヴィゼイションロックバンド、ロストアラーフのヴォーカリストとして一部でカリスマ的人気を得ていた灰野は、誰か(どうしても想いだせないらしい)に「面白い男がいるから」とすすめられて、渋谷ジァンジァンにマコのライブを観に行ったという。 恐らくそれは、当時マコが実兄と組んでいた紫雲英(ゲンゲ)なるロックバンドであっただろう。
そして、次に二人が会ったのは、音楽評論家の門章(故人)が企画して新潟で行われた現代音楽のフェスティバルだった。 この時は「確か一緒にステージで共演したはず。」だと言う。 これを契機に二人はしばしば共作、共演するようになり、それは73年末頃まで続く。当時、瓦解(がかい)に向かいつつあったロストアラーフにあって灰野は、ギター等の楽器演奏を始めるなど新たな模索をスタートしていた頃であり、マコもNHKの仕事を手始めに天才音楽少年として脚光を浴び出し、様々な実験的なサウンドを試みていた。 互いにその並外れた才能にひかれ、琢磨し合ったのも自然の成行きという気がする。
灰野の記憶によると、知り合った頃はマコはまだ代官山の彼女(後の妻ブッチ/智美さん)のアパートに居候しており、灰野も何度かその部屋を訪れたと言う。 当時の想い出話しで特に興味深いものとして、NHK-TV「昼のプレゼント」への出演がある。 お昼の食事時のその生番組に4人で出演してライブをやったのだが、その後「あんなメチャクチャな演奏を昼のだんらん時に放送するなんてけしからん」という苦情がNHKに多数寄せられたのだという。 マコ、そして灰野にとって面目躍如たる出来事だといっていい。
さて、マコと灰野は73年いっぱいぐらいを境に別れ、その後共演することはなかったが、幸福なことに、今我々には当時のこの奇跡的な録音物が若干ではあるが残されている。 一つは言うまでもなく、先述のポリドールからのマコの1stアルバム「マジカルパワー」であり、もう一つが、今あなたが手にしているこのCDである。 ポリドール盤の方は、73年の9~12月に主にポリドールのスタジオで録音されたものだが、本作はそれに先立ってマコの自宅を中心にピンポン録音されたものだ。 灰野の記憶によると、彼のVo.パートは恵比寿の貸しスタジオで録音されたものだという。
今回発売される本作Vol.1以下の計5枚の作品のうち、本作のみがポリドール盤の制作以前に録音されたもので今後発売予定のVol.15までの残りの14枚は全てポリドールの1st発表後2nd制作までの1年ちょっとの間に自宅録音されたマテリアルから成っている。 Vol.2以下の作品が主にテープコラージュを主体にした極めてワイルドかつエクスペリメンタルな内容—つまり非常にスリリングであるというか当たり外れが多い内容であるのに対し、このVol.1のみは、かなり綿密な構成に基づいて作られており、完全に1枚のアルバムとしての様相を呈している。 それはあたかもポリドールの1stのネガというか、姉妹作品のようである。 実際、本作のラストに収められた「空を見上げよう」は、ポリドール盤のラストにも別テイクが収められているが、マコのサウンドプロダクションも灰野のVo.も、本作の方がよくできていると思う。 74年の映画「卑弥子」のサントラのデモトラックらしき冒頭の曲から、ロバートワイアットの1stソロ「End of an ear」を思わせるコラージュ作品(特に灰野のVo.が素晴しい)、シンセのうなりがイタリアンロック風の叙情的な曲等など、楽想の豊かさといいイマジネイションの喚起力といい、ポリドール盤に決して劣らない。演奏自体は、現在のレベルからすればお世辞にも上手いとは言えないが、ここには、音の響きや組み立て方といった皮相な問題を超えた、極めて重要な何か、大げさに言えば人間存在の根源に関わる何か、確かにある。 そして、その背後に控えているのは、マコと灰野それぞれの、そして共同の明快なコスモロジィである。 既にここで二人は宇宙の何者かと交感運動を展開していたのある。 マコと灰野、今は全く異なる表現方法を用いる二人だが、彼ら各々の哲学は変わっていない。 ここにある音は見事にそれを証明している。まつやま しんや スタジオ ボイス編集者、苦労人。 1958年、鹿児島市生まれ。駆け落ち歴なし。 79年、大学2年の時、誕生して間もない吉祥寺マイナーに足を踏み入れ仰天、すぐに吉祥寺に引っ越し、以後転落の一途。昔、横山SAKEVIとJOJO広重のノイズデュオアルバムを作った(2千枚プレス)が、まだ半分は多分某社の倉庫に眠っているはず。
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HAPMONIYM #4
[MoM'n' DaD 1993]

Wriner Notes
Written by 秋田昌美
失われた70年代 今回めでたく発掘されたマジカルパワーマコの膨大なテープが録音されたという1974年前後の音楽状況というのはどのようなものだったのか。非常に大雑把だが私個人のロック年表から断片的な記憶をたぐりよせてみたい。
思い起こせば、この時代に私が70年代初頭から継続して聴いていたロックは、ザッパ(「サポタージュ」1974)、ブラック サバス(「ロキシー&エルズウェアー」1975)、キング クリムゾン(「スターレス&バイブルドラッグ」1974)程度であった様な気がする。 低迷するブリティッシュ ハード/プログレに対して台頭してきたのがジャーマン/フレンチ プログレだった。ノイ、ファウスト、グルグル、カン、ゴング、マグマといった音が日本にも情報として伝わり始めていた。 だが、時代はすでにフュージョンが浸透していた。マイルス デイビスの「ビッチェス ブルー」以降、音楽全般に決定的影響を与えたフュージョンとは、演奏テクニック重視のジャズ ロックである。 ザッパ、クリムゾン、ゴング、グルグルを始めとして、いずれもこのフュージョンの旋風を逃れることは出来なかった。マハビシュム、オーケストラ、ハービーハンコックのヘッド ハンターズからウェザーリポートへとジャズ界はフュージョンによって俄かに活気づいていたが、この影響はプログレ界にはマイナス要因として働いていたようだ。 ブランドXは例がいとして、本来、スポンテネウスな精神性を原動力とするハード ロック/プログレにとって、音楽全体の構築性と洗練された手のテクネーにこだわるフュージョンは創造力低下の原因となる。 つまり、ハード/プログレもうすこしパロール的と言えるオリジナルな音楽言語に関わるものであると考えるからだ。
私感に従えば、伝統的プログレとハード ロックを合体させたこの時代の傑作はザッパとサバスくらいだった。
ハード ロックもプログレも、変貌を迫られたというのがこの時代である。 当時、ブリティッシュ ハード ロック界にツェッペリン、パープルの後を継ぎ登場した新生はクイーンである。アメリカでは最後の伝説のハード ロック バンド、マウンテンの後にエアロスミスが登場してきた。 はっきり言って私は当時の彼らが理解できなかった。メロディーやガレージ的センス重視の彼らよりは、グラム ロックの方が正統的ブリティッシュ ロックの継承者に見えたのである。クイーンの「戦慄の王女」(1973)は分からなかったが、ミック ロンソンの「十番街の殺人者」(1974)は傑作と判断したのである。後者でアインズレー ダンバー(ジョン メイオール、ブルース ブレイカーズ、アインズレイ ダンバー、リタリエイション、マザーズ オブ インベンション、ルー リードの「ベルリン」と渡り歩いた天才ドラマー)がドラムを叩いていたからだろうか。 実際、73~74年という時代はグラム全盛期であり、Tレックスやミック ロンソンは在籍当時のディヴィット ボウイ バンドも当時来日を果たしている。
驚くべき事にロキシー ミュージックは73年に既にデビューしているのだ。
プログレ シーンに関しては、クラフト ワークの「アウトバーン」がすでに74年である。 エドガー ブローゼの「イプシロン イン マレイシアン ペール」が75年。 前者はテクノポップ流行のきっかけであり、後者のインナースリーブの少女ヌード写真の流行はTGの「DOA」を先取りにしていたのだ。
この文脈でいけば、アーサー ブラウンのキングダム カムの「ジャーニー(1974)」はキャバレー ヴォルテールを先取りしていたのである。 つまり、従来のハード ロックもプログレも大いに修正を迫られていたのがこの時代である。プログレはジャーマン エレクトロニクスに席を譲りつつあった。フュージョンという演奏テクニック重視の音楽によって駆逐された精神の拠り所はエレクトロニクスに寿肉したのである。
だがザッパ/ビーフハートといった60年代アヴァンギャルドの継承形も当時台頭してくる。 その筆頭はヘンリーカウや、アルベール マルクールといった後のRIO(ロック反対派同盟)の連中だった。 同時にプログレに新たな息吹をもたらしたエッグ、ナショナル ヘルス、キャメルといったソフト マシーンの流れを汲むカンタベリー派だった。
そして、ヴァージン レコーズの設立とあいまって、ゴング、そして元ケビン エアーズ&ホール ワールドのマイク オールドフィールドの登場があった。 (個人的にマイク オールドフィールドへの思い入れは皆無だが、次回リリースのマジカルパワーマコの録音には「チューブラー ベルズ」が挿入されている)
さて、多彩だが実りの少なかったこの時期に私はロック離れが激しく、INCUSやFMPといったフリーミュージックをこよなく聴いていたと思うが、ロックを再び聴きだしたのは復活したイギー ポップの「イディオット」以降である。 私感だが、ロックを救済したのは彼であり、そこから76年のパンクに繋がる。
ニューヨーク ドールズ、ディクテーターズ、ジュヴライオス等、ポスト グラム ロックがざわめいていたNYにパティ スミス、テレヴィジョン等NYパンクが登場してくるのが74年~75年頃だ。 そしてザ ストゥージズ、サバスとパンクを繋ぐブルー オイスター カルトの登場がこの時代だ。(「オカルト宣言」1974) ロックは原形復帰し、より野蛮でアグレッシブな方向へと、従来のプログレは衰退し、電子の絶叫へと席を譲るのである。時代は熟成していた。
孤高の音楽家マコの存在も決して時代状況と無縁ではない。 逆に無縁であることで当時誰も出来なかった音楽を作り出したのだ。 失われたものを求めて、この時代に録音されたマジカルパワーマコの作品は全く希少価値が在る。遅れてきたサイケデリアと言うのであろうか。
プログレが精神性を失った時代にあって、スポンテネオウスな域に達したのが彼の音楽だ。 当時の日本のロックの言説は複雑だ。 例えば、「ミュージックマガジン」はグラムは評価するが、ファンカデリックは駄目。「日本語をロックにいかに馴染ませるか」と言うのが当時の課題でファニー カンパニーやハッピー エンドが評価されていた。 吉祥寺のライブハウス「OZ」もすでに閉鎖されていたと記憶する。 ロストアラーフ、M、ジプシー ブラッド、フラワー トラベリン バンド、タージ マハール旅行団、頭脳警察といった極めて日本的ロックが活発にやっていたが、それらの音楽に対する評価は歪んでいたようだ。 何故当時ドイツでファウストがああしたことをやっているのかと言った時代状況が把握されていないのである。 つまり、海外ロックに対する劣等感が支配していた時代にあった、日本独自の感性に対する評価は今に延長されていると言う事だ。
マコの発掘はそうした意味で全く貴重だ。 福生というアメリカナイズされた環境でこうした音楽をつくること自体希少だ。 そして、我々は彼によって掲示されていた宇宙的な音楽の自然発生原理に今最も耳に優しい。 そして、これを機会に日本の70年代ロックの異端達の再考は世界的な課題となった。
あきた まさみ メルツバウ主宰。ノイズ音楽家。ロック、SM、カルト批評。 著書に「フェティッシュ ファッション」「ノイズ ウォー」 「快楽身体の未来形」(共に青弓社)等がある。
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フラワー?トラヴェリン?バンド伝説
フラワー?トラヴェリン?バンド伝説とは
26年前の9月16日、ラジオやテレビは一斉に台風の接近による暴風雨警報の発令を告げていた。このとき、関係者の誰もがコンサートの中止を予感した。しかし横須賀の若者たちは続々と文化会館大ホールに集結、超満員のなかでコンサートは決行された。
フラワー?トラヴェリン?バンドの名盤「Make Up」はこの日の記録でもある。
その日から、横須賀文化会館の呼称は、この地の若者たちにとって、ロックの殿堂ともいうべき特別な響きと、連帯の意志を帯びる。推進役となったのは当時ドブ板で「部族」と呼ばれたハウスのメンバーたち。
「部族」はロックを聴かせるのみならず、長髪のヒッピー?フリークやドロップ?アウト、カウンター?カルチャーのフリー?スペースとして、様々なグループに場を提供していた。前衛劇団、ベトナム反戦を叫ぶ外国人僧侶、ブラック?パンサー、学生運動の活動家、紫の煙???。まるでサンフランシスコのサイケデリックがそのまま花開いたような空間。それがドブ板の「部族」だった。横須賀におけるフラワー?トラヴェリン?バンドの初ライブは、ここで行われた。
希有のロック?アーティストの到来は、横須賀の若者たちをはじめ、米軍基地の兵隊たちをも虜にし、自然な流れのなかから文化会館でのコンサート企画が生まれていった。
70年代初頭、それまでの価値観支配から脱却し、新しい世界をイメージする若者たち。「フラワー?トラヴェリン?バンド」と「部族」。かれらはまた70年代初頭の街の空気そのままに、世界中の仲間たちから発信されて来る、連帯のメッセージに応えた、横須賀若者文化の「出発点」として、今なお語り継がれている。
以下は当時の「部族」メンバーの証言。
「フロントに大きなピースマークを着けたハイエースに拡声器を取り付け、宣伝カーに仕立てた。授業中の高校?大学などを中心に、横須賀近辺を何度となく繰り返し走り続けた。ポスターを作った覚えはなく、深夜、電柱やキャバレーの立看の上から、小麦粉を煮て作った糊を塗り、チラシを貼りまくった。途中、暴走族に脅された事もあったが反撃し、彼等は走り去って行った。そんな行動を何度かフラッシュを焚かれ写真に撮られた。海兵隊の友人たちはCIAだと言っていた。実際、ゲート前の事務所で、供に活動した仲間達の顔写真を見たという顔見知りの兵隊がいた。
スタッフはいくらでもいた。部族のスタッフ、出演していた連中、出入りしていた客たちが、それを買って出た。皆、素人にもかかわらず、持ち場はごく自然に決まった。女子高生?女子大生はケータリング、部族のスタッフ?男子は機材運搬、腕っ節の利く連中は会場警備など。本番当日、訳も分からないままいきなり照明をやらされた者もいた。事前にこれといって打ち合わせもないのだが支障もなく旨くいった。開場直前、内田裕也さんが全員をステージに集め、記念写真を撮った。それが後に「MAKE UP」のジャケットに使われた。あのジャケットには大きな意味があるように思われてならない。フラワー?トラヴェリン?バンドが初めての実況録音盤を、そして最後のアルバムを横須賀で作ったこととともに。」

1970年の終わり、Japan Rockを背負い、信念だけをたよりにトロントへ。「誰もやったことないんだし、行ってみなきゃ何にも始まらないんだから」。まさにゼロからの出発だった。ユニオンのライセンス許可が下りるまでの半年は、安アパートを借りての共同生活と曲作りとリハーサルの毎日。支えは日本のロックを背負っているという自負だけだった。
しかし半年後、ライト?ハウスの前座をつとめたフラワー?トラヴェリン?バンドのカナダ?デビュー公演は若者たちの圧倒的支持、スタンディング?オベイションをもって迎え入れられたのである。その後の共演者名を幾つか挙げるだけでもその人気の凄さが分かる。地元出身ライト?ハウスをはじめエマーソン?レイク&パーマー、チェイス、ブルース?プロジェクトなどのビッグ?ネームが続々と彼らとのコンサートを申し出た。当然、プロモーターやレコード会社も契約書を持って駆けつける。カナダ盤のSATORIはこうして登場したのである。アルバム「SATORI」はカナダのチャートでベスト3を記録。その後はカナダ全土をコンサート?ツアー。次第にフラワー?トラヴェリン?バンドがコンサートでのメイン?アクトをつとめるようになって行く。
1972年、カナダでの成功と自信を胸に帰国したフラワー?トラヴェリン?バンド。彼らを迎えたのは吉田拓郎に代表される日本の大フォーク?ブームだった。想像もしていなかった母国の音楽状況の変化に彼らは戸惑いを隠せなかった。ごく少数の人々をのぞき、レコード会社や評論家たちはこぞってフォーク?ブーム?ビジネスをあおり立てていた。
日本人による英語圏初の成功、それもロックでの進出を果たしたフラワー?トラヴェリン?バンド。情けないことに日本の音楽業界関係者たちは彼らの「存在」を黙殺したのである。思えば20年以上早すぎる登場だったのかも知れない。
あらためてこの国の評論家たちとその取り巻きたちの無能さを思い知らされる。
しかし、フラワー?トラヴェリン?バンドは自らを奮い立たせるかのように、精力的なコンサート活動を続けた。横須賀の伝説となった「Make Up」コンサートもこの時期に行われている。
そしてフラワー?トラヴェリン?バンドにビッグ?チャンスが訪れる。初来日するローリング?ストーンズとの競演。メンバーたちにも久々に活気がみなぎる。彼らは「ストーンズを喰っちゃうつもり」でこの仕事を引き受けたという。しかし、またしても不運が彼らを襲う。公演直前、ミック?ジャガーに対する入国拒否、ローリング?ストーンズ来日公演の中止である。
1973年、フラワー?トラヴェリン?バンドはあたかも自らの足跡を封印するかのごとく、京都円山公園でのコンサートを最後にロック?シーンの表舞台からその姿を消した。
日本が世界に誇るべきロック?アーティスト、フラワー?トラヴェリン?バンド。それ以後、この国から彼らに勝るロッカーは誕生していない。
あの時代においてさえ、世界という視点からロックを捉えきっていたフラワー?トラヴェリン?バンド。わたしたちの誇りであり、始点である。
いま「ロック」が、単に音楽のジャンルを表す記号にまで成り下がってしまった世紀末であるからこそ、フラワー?トラヴェリン?バンドという不世出のバンドが存在した事実を、この国の若者たちにもう一度問いかけてみる必要性を強く感じている。
横須賀にはいまなお、誇るべきフラワー?トラヴェリン?バンド「Make Up」の伝説と、かれらによって出発した横須賀の若者文化が、アーチスト委員会やブルースシティ?ムーヴメントというかたちでしっかりと根を下ろし、実を結んでいるのだから。
文 / 中村裕介
 Anywhere
|  SATORI
|  Made in Japan
|  Make Up |

●1998年9月19日『SATORI』ライブレポート
9月19日、中村裕介率いるF.E.N.に、フラワー?トラヴェリン?バンドのオリジナル?メンバー和田ジョージを迎え、新たにジョー山中 & F.E.N.を編成、伝説の「Make Up」コンサートを再現。