2004年10月02日

MOTHER’S BLOATED CORPSE” CD (Membrum Debile Propaganda/ Germany + Deadline Recordings/ USA + Utsu tapes/ Japan)

 日本のノイズは、いわゆる欧米のノイズとはまったく違った大音量雑音の形で生まれたのだが、70年代末から始めた非常階段、MERZBOWが創始者である。それに続いた感じのINCAPACITANTS、ZENI GEVAのリーダーのソロ?ユニットであるNULL、BOREDOMSで名をはせたEYEがもともとやっていたハナタラシ(HANATARASH)が、第二世代だろうか。さらに80年代後半以降の、SOLMANIA、GEROGERIGEGEGE、MASONNA、暴力温泉芸者(VIOLENT ONSEN GEISHA)が第三世代になりそうだが、このあたりになると他ジャンルとのクロスオーヴァーの動きも起こってきた。そして90年代には、先駆者に影響を受けたノイズ?ニュー?ジェネレイションと言うべきたくさんのノイジシャンが登場した。
 ぼくが知る限り日本のノイズ?ニュー?ジェネレイションには、パンク/ハードコアからの影響を強く感じさせるものが多い。むろんそれ以前の世代のノイズも、パンクやハードコア、さらにそこから派生したグラインド?コアと少なからずニアミスを繰り返してきた。たとえば、MERZBOWの秋田昌美はグラインド?コアやデス?メタルを愛好しているし、INCAPACITANTSのコサカイフミオはパンク/ハードコアの大ファンでもある。マゾ山崎にいたっては、NAPALM DEATHなどのグラインド?コアからも触発されてMASONNAを始めたほどだ。
 けどGUILTY CONNECTORは、今までの日本のノイズとは比べものにならないほど、パンク/ハードコアのダーティな音作りとダークな精神性を宿している。
 GUILTY CONNECTORはコウヘイ?ザ?ファストのソロ?ユニットである。コウヘイは81年に京都で生まれ、地元ではまずいくつかのパンク?バンドでドラムやギターを演奏していたが、もっとブルータルな音楽をやりたい欲求が強まった。たとえばそれはハードコアやグラインド?コア、デス?メタルだったりしたのだが、あいにく友人たちはその手の音楽を好まず、ブルータルなバンドの結成は難航した。
 しかしまもなくコウヘイはノイズというジャンルを知り、これなら一人でもエクストリーム?ミュージックができる!と悟り、ノイズ道を歩むことになる。そして高校時代には早くも、GUILTY CONNECTORの名でノイズ?アクションを起こしていた。99年に上京してからは、ライヴをはじめとしてさらに精力的な活動を展開。2001年にはMSBRとヨーロッパ?ツアーも敢行した。
 音源発表も99年から始め、最初はカセット?テープでのリリースだったが、翌年にはCD-R、2001年以降はCDやEP、LPでも音源を世に出していく。コウヘイ自身の自主レーベルのウツ?テープスをはじめ内外の様々なレーベルからリリースしており、スプリット作品やコラボレート作品も含め、かなり多数の音源を発表してきた。ちなみにたとえCD-Rであっても、GUILTY CONNECTORはジャケットやパッケージが凝っており、断じてデモというわけではない。そのへんにはコウヘイもこだわりがあるようだ。
 だが実はCD-RではなくCDでのリリースは、実はこれまでに1枚だけだった。電子雑音レーベルとウツ?テープスの共同で2001年に出した、本格的なファースト?アルバムとも言うべき『First Noise Attack』のみである。今回の『Mother’s Bloated Corpse』は、GUILTY CONNECTORのセカンドCDであり、同時にセカンド?アルバムとも言えそうだ。
 コウヘイは、“ウツ?エレクトロニクス”“シバキ?エレクトロニクス”と命名した独自のノイズ発振装置を用い、極悪ノイズを放つ。鉄板や鉄棒、鎖も構成要素になっており、もはや機材というよりも、さしずめ古代のプリミティヴな武器である。とにかくコウヘイはラップトップを嫌う。その真相は不明だが、鳴る音の質感はともかく、音を出しているときの見た目がカッコよくなくて生々しさがゼロだからかもしれない。要するにGUILTY CONNECTORは、“鬱”なマインドをエナジーとしつつも肉体全体で“しばく”エレクトロニクスのノイズなのだ。
 何にせよヴィジュアルも重要な要素であり、逆に言えば思い切りフツーな見た目も時として個性的になりえるわけだ。話を戻すとそもそもラップトップを操っている姿は、いくら音がグレイトであろうがロックじゃない。コウヘイが長髪を振り乱しながらしばいて音を轟かせるステージは、まさにロックだ。腰に巻いたガン?ベルトは、コウヘイが大好きなバンドのひとつのMOTORHEADをはじめ、ファスト?ダーティー?クレイジーなロック?バンドの武装体勢の象徴である。むろん、コウヘイの長髪もロックの証だ。とにかくGUILTY CONNECTORはノイズでロックしているのである。
 いわゆるノイズ?バンド/ユニットは、インプロヴィゼイション中心のためか長い曲が多い。けど、GUILTY CONNECTORはノイズにしてはわりと曲が短めで、音が凝縮されている。そのあたりもパンク/ハードコアから無意識のうちに影響された部分なのかもしれない。そういえばファーストCDの『First Noise Attack』は、よくパッケージを見ると“ギルティー?コネクターの激情”という邦題が打たれていた。それって、RAMONESのファーストの邦題『ラモーンズの激情』へのオマージュだろう。
 コウヘイはメジャー/マイナーや新旧問わず、ジャズも現代音楽もブラジル音楽も含めて幅広く音楽を聴く。このCDの曲にも、そのへんのテクスチャーが自然と忍び込んでいる。だがGUILTY CONNECTORの肝とはらわたは、やはりパンク/ハードコアだと思われる。といっても、むろんスケートボードとリンクしたアメリカに多いスラッシュなバンドではなく、いわゆるタフなニューヨーク?ハードコアでもない。80年代初頭のDISCHARGEをベースにしたいわゆるUKパンク/ハードコア流れを、コラージュのアート?ワークも含めてあちこちに感じさせるのだ。といっても音楽スタイルが似ているわけではなく、いわば近い匂いを放つのである。
 たとえばコウヘイがよく着ているバンドTシャツには、EXTREME NOISE TERROR、NEUROSIS、NAUSEA、MISERY、CORRUPTEDなどのものがある。ドゥームな臭いに満ちているではないか。そういえばGUILTY CONNECTORは、ファーストCDの『First Noise Attack』というタイトルも意味深だった。大阪で行なわれていたクラスト系の企画ギグの名前であり、それに関連したコンピレーションEPのタイトルにもなった、“Final Noise Attack”のダーティー?マインドの流れも感じる。そして、先が見えない絶望感と荒涼とした心象風景を描くダークなバンドの大本は、BLACK SABBATHであり、このCDの5曲目でフレーズと曲名が引用されたのだ。
 ある種のヘヴィ?ロックのリフを刻みつつ陰鬱な閉塞状況を突き抜けるハーシュ?ノイズは、あくまでも高速だ。ハードコア?パンク/グラインド?コア世代の速さである。ますます頭が加速して音も加速した結果、コウヘイは“Kohei The Dabo”から最近“Kohei The Fast”と名乗るようになっている。また、このCDは盤面にはアナログ?レコードみたいな回転数表記があり、そこには33RPMでもなく45RPMでもなく78RPMでもなく、“悪魔のスピード”がクレジットされていることにも注意したい。
 さてこのCDはクレジットを見てわかるように、半数以上が既発表音源ではある。しかし断じて寄せ集めではなく、アルバム全体をストーリー仕立てにするための必然的な結果だ。ジャケットと照らし合わせて簡単に説明すると、下の部分は地球上で続く蛮行の結果の様子がコラージュされている。上の部分は地球に住めなくなった人々が違う星に移った状態だが、地球(mother’s bloated corpse)も遠くに見えるその地でも、同じように蛮行が繰り返されて住めなくなるという意味が込められた。むろんそのように音や曲順も構成されており、原爆が落とされたあとに降る黒い雨を描く音で始まり、美しい虫やカエルの鳴き声で終わるのだ。
 GUILTY CONNECTORは2000年に、カリフォルニアのBASTARD NOISEと日本で共演し、完全合体したライヴも披露した。そのリーダーのエリック?ウッドは、P.H.C.~NEANDERTHAL~MAN IS THEBASTARDといったバンドで、シリアスなパンク/ハードコア?シーンを拠点に活動していた鬼才である。かつてコウヘイは「GUILTY CONNECTORにはいわゆるメッセージはない」という趣旨のことを言っていた。だからこれはあくまでも私見だが、“万物の頭とされる霊長類の中でも最も高等と言われるヒトが実は最も愚か”といった彼の思想にも、このCDのニュアンスは通じる気がする。手垢にまみれた陳腐な反戦ソングではなく、広い視野で世界の状況を認識し、宇宙を感知した震える音で憂鬱なカオスの抒情詩を描き出しているのだ。
 アメリカがイラクに攻め入った戦争がひとまず終結しつつあった2003年の4月上旬、コウヘイから“ONE LOVE”というタイトルのメールが届いた。そこにはこう書かれていた。“Dear friends, I hang out the washing of PEACE to dry in a blue sky of Tokyo. 私は平和の洗濯物を東京の空に干します。”
 メールには、“LOVE & PEACE”という手書きのTシャツが青空に向って干された画像も添付されていた。そういうシンプルかつストロングかつハートフルなメッセージをノイズでスクリームする生命体が、GUILTY CONNECTORなのである。
     
2003年8月30日 行川和彦


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Pink Ribbon

精神感應的迷幻噪靈-當今日本地下音樂

日本地下音樂的發展,近年來創作力相當旺盛。由噪音樂團Merzbow在國際知名現代音樂雜誌
The Wire頻頻被報導的情況看來,顯示出了現代西方對日本音樂地下創作音樂的重視程度。
日本這個一向如海綿體般吸收外來文化的國度,擅長將外來文化融合,而後發展成為自己的特色。整個日本地下樂界,尤以迷幻與噪音為兩大宗。由日本新宿多達四十幾家的唱片行集中地觀察來看,可以明顯看出這兩類在地下音樂的旺盛創作力。在新宿,單獨是日本地下迷幻音樂便獨自成為一家唱片行的銷售重點,例如,All Man這家店內收集了滿滿的西洋六十年代迷幻音樂唱盤,Blue Cheer等,而與西方對照的日本迷幻樂團唱盤,則更是依70/80/80年代分類,由這些依時代歸類的唱片,不難嗅出迷幻音樂儼然成為一獨特的派系。僅次於最大宗的迷幻音樂,日本地下樂界在電子噪音雜誌等出版品、JNR等電子噪音唱盤專賣店,也展現了硬蕊噪音在日本的活力

各樂種間的相互交染
日本地下迷幻與噪音音樂,皆是受到1970年代以來龐克運動的影響,迷幻音樂在日本也由70年代一直發展至今,而噪音則是在90年大發揚光大。這兩類音樂至今日逐漸沉澱醞釀出自己的風格—注重音樂聲響對於人體精神感受性的作用。這種注重精神感受的關注點,同時也影響到了其他的日本地下音樂創作。
國際間地下音樂創作的大流派,如電音、Hip-Hop、黑金屬Black Metal、歌德Gothic等,這些樂種在日本,多少也受到迷幻與噪音的影響。如一月份來台演出的日本第三大黑金團之一Abigail,其金屬式吉他演奏出的凶爆的噪音,明顯的日本噪音音牆概念運用黑金演奏技巧。而歌德等樂種在日本並未真正完全移植,但卻在一些日本迷幻樂團,如靜香Shizuka中可以感受到兩者的結合。

地下音樂背後的運轉之手-獨立廠牌
迷幻音樂最早在六十年代嬉皮文化引進日本之時,便一直在日本地下音樂文化深根,且結合了當時日本校園運動,左派政治思想等,如著名的迷幻樂團裸身集會(Les Raillizes de Nudes)團員在北韓劫機事件中喪身。八十至九十年代,迷幻音樂更吸收了環境聲響的概念,拓展為充滿實驗性的風格。如迷幻名團Ghost引入世界音樂的元素。地下音樂的活動力,不外乎是透過幾個獨立廠牌的經營,PSF廠牌便是日本東京迷幻音樂的匯集之處,灰野敬二的不失者(Fushisusa)系列專輯便是東京地下迷幻音樂PSF的出版主力之一。同時PSF也將觸角由迷幻音樂延伸至現代音樂範疇,是目前日本地下音樂未來引導主力之一。
1980年代西方興起的工業實驗音樂概念,進入九十年代便已告衰微,近年來在日本卻發展出以高聲量吉他爆發噪音音牆為特色的新生力量,舞台演出也結合了SM藝術。鍊金術(Alchemy Records)這家廠牌旗下
出版了Merzbow、Masonna等噪音名團,將日本地下噪音進一步介紹給西方地下樂界。

此次灰野敬二與吉田達也來台,也將於3月16日在聖界的workshop與台灣樂手進行中日交流。可以期待的是,日本地下音樂注重多層次各樂種的深度耕耘,在當今台灣地下音樂界以本地自發性文化為主的廣泛生態下,兩者作為參考對照能夠激發出怎樣的影響。

日本地下音樂廠牌A-Z一覽
Alchemy 日本知名噪音大廠,出有Merzbow多張專輯。
Capatain Trip迷幻樂專門廠牌-代理發行藍調經典團Blue Cheer
Circle Sunshine-代理樂團HANADENSHA
Columbia Japan-六十年代迷幻搖滾團Cosmos Factory/Jacks
Creativeman Disc-迷幻搖滾/電子,wihte heaven主唱 YOU ISHIHARA個人專輯
DIGITAL NARCIS 電子/即興
Eastwest-電子實驗
Eyewill-收錄與灰野敬二合作之大提琴家Barre Philips之專輯
Godmountain-發行東京地下搖滾/實驗樂團多張專輯
H.G.Fact-發行White Heaven名盤threshold of the pain
Los Apson-噪音
Moboroshi no sekai-*收錄灰野敬二演奏6&12弦吉他、電子小提琴、豎琴之作*
MAGAIBUTSU-收錄Ruins樂團
Marquee-收錄黑暗女聲TAKAMI
Meme-聲響實驗/電子噪音 頗有名之日地下廠牌如Bequeen團員de Warrd之作
Mom N’ Dad-噪音實驗,收錄灰野敬二專輯Milk Way
My Records-收錄日本現代音樂koto演奏者SAWAI, KAZUE
My Records-收錄日本現代音樂koto演奏者SAWAI, KAZUE
On Sundays-現代音樂行動藝術聲響
Oz Disc-頗有名之日地下實驗廠牌
PATAPHYSIQUE-東京地下迷幻樂團Overhang Party主腦福岡林嗣的個人迷幻/現代音樂廠牌。
PSF 最有潛力發展的日本迷幻大廠,另有Modern Music副廠牌經營現代音樂。
Tag Rag-噪音/迷幻搖滾
Timebomb-藍調搖滾
Toei music publishing-出有多張俄國實驗藝術電影配樂
Tokuma-發行灰野敬二專輯keeping on breathing/第二張手風琴專輯Even now still
不失者專輯the time is nigh/a little longer/the wisdom prepard
灰野敬二與Derek Baily之合作專輯Drawing close ,attuning
灰野敬二新組合AISHUYO
Trigram-現代音樂
V-Vine Records-實驗噪音知名廠牌

粘利文

一,史伯的”和同”说
<国语.郑语>记载,周太史伯在回答郑桓公关于”周其弊乎”(周王朝是否即将衰败)的问题时,有一段议论(见蔡仲德:<中国音乐美学史>p35).史伯的议论有三点值得注意.
1,天,人的关系.一方面”民之所欲,天必从之”,天顺从人的意志.另外一方面,人又必须顺应客观规律,否则便欲无弊而不可得.这是一种”天人合一”的观念.
2,客观的规律是“和实生物,同则不继”.即“以他平他”异类相杂,才能产生新的事物,并使之繁衍不息.“以同稗同”,同类相加,则只有量的增多,而不可能产生新的事物,事物也就不可能继续发展.
3,所谓“以他平他”,异类相杂,最基本的就是”以土与金,木,水,火杂”,万事万物都是由这五种基本物质(即”五行”)所构成,音乐也不例外.史伯认为音乐和自然万物,社会人事同构,也应取和而去同.所以”声一无听”,单一的声音不可能动听,而要“和六律以聪耳”,以高低不同的众多乐音组成
悦耳的乐曲.也就是说,音乐之美不在于多,不在于”同”而在于”和”,在于寓杂多于统一.
二,众仲论羽数及乐舞”行风”.
通过乐舞”行八风”来谈音乐与自然的联系.略过….
三,郤(音:隙)缺的”无礼不乐”说
郤缺认为,没有礼,没有德就没有什么可以歌唱,也就不会有快乐,这正是人们叛逆的原因,此即所谓“无礼不乐,所由判也”.这就蕴涵两层意思,一是乐应以礼(德)为内容,而不应有礼,德之外的内容;二是乐能给人以快乐,故可为礼服务,使人心归顺,不致叛逆.
四,师旷的以乐听风说,“新声兆衰”
师旷曾以一下言论稳定晋之军心:不害.吾骤歌北风,又歌南风.南风不竞,多死声.楚必无功.,师旷的思想带有明显的神秘成分,故后来遭到嵇康的驳诘.师旷曾因”平公说新声”而发表议论(见蔡仲德:<中国音乐美学史>p39),这段文字最值得注意的一点,则是在历史上第一次提到了”新声”.所谓“新声”,是相对雅颂旧乐而言,指春秋时期兴起于各诸侯国的民间音乐.在师旷看来,”新声”不受礼的节制,不能传播德行,必然使”迩迁而远不服”.因此称”新声”为”靡靡之乐”,”亡国之乐”,所以说“新声兆衰”说的实质是音乐亡国论.
五,季札的音乐评论
<左传.襄公二十九年>记载,故国季札访鲁时曾观周乐,并加以评论.这是中国音乐美学史中最早的音乐评论.对新兴的各诸侯国民歌有褒有贬,对雅颂旧乐则赞不绝口,叹为观止,因而带有保守倾向.
六,子产论音乐与礼及”六气”,”五行”的关系
子产一方面认为音乐和万物一样来自天之”六气”,地之”五行”;一方面又认为音乐和万物一样也应遵循”礼”这一根本规律,也应合于“天地之性”.而所谓“天地之性”,就是适度不过分,过分(“淫”)就会”昏乱”,造成灾祸,适度才能”长久”,才能正常发展.所以,归根结底,子产是要音乐为礼服务,为政治服务.此外,子产还说”哀有哭泣,乐有歌舞”,认为音乐是不是表现好,恶,喜,怒,哀,乐”六支”,而是只表现喜乐之情,这对后世曾产生长远影响,也值得注意.
七,医和论”中声”,”淫声” (医和,春秋时秦国名医)
和子产一样,医和也认为先有五味(美食),次有五色(绘画),再有五声(音乐).这既是因为与”五行”–自然的关系,味最直接(直接取自自然之物),色次之(直接模拟自然),声又次之(间接表现自然),也是因为美感的产生,味最容易,色(诉诸视觉)次之,声(诉诸听觉)最困难,所以人类的审美意识正是顺着味–色–声的先后次序向前发展.
(真是有意思极了)
医和认为,合乎天地之性的有节制的音乐才是美的,而那种采用过度音响,繁复的手法(此即所谓“烦手淫声”)的音乐是丑的,应该予以舍弃.作为一个医生,他还从医学的角度提出了关于音乐作用的思想,认为”淫声”会荡心塞耳,使人失去平和的本性,甚至产生疾病;合乎天地之性的”中声”则能节制人心,使人保持平和本性,以至健康长寿.显然,这是一种建立在”阴阳”说,”五行”说基础上的,音乐养生学.他还在中国音乐美学史上首次提出了”中声”,”淫声”这一组对立的审美范畴.

陶潜其人
陶潜(365-427) 东晋隐士,大诗人.名渊明,字元亮,入宋后改名陶潜.江州浔阳人(今江西九江人).出身没落贵族.
陶潜在其<五柳先生传>写道:”闲静少言,不幕功利.好读书,不求甚解.便欣然忘食…….. 常著文章自娱,颇示己志.忘怀得失,以此自终.”琴,书,诗,酒为其生活的亲密伴侣,同是生活情趣之所寄托.
陶潜在诗<诸人共游周家墓柏下>中有言:
今日天气佳,清吹与鸣蝉.感彼柏下人,安得不为欢?清歌散新声,绿酒开芳颜.未知明日事,余襟良已殚.
感叹人生短暂,主张及时行乐是魏晋文学的突出主题,是魏晋名士共同的人生态度,是摆脱礼法,名教束缚后的人的生命意识觉醒的一大标志.而在陶潜看来,为欢不能没有”清吹与鸣蝉”,即不能没有音乐.因此对他来说,琴,书,诗,酒不仅是生活情趣,而且生活中不可或缺的重要内容.
以琴书为乐,以琴书消忧
陶潜一生大部分时间居于乡里,生活贫苦,有大量田园诗名作流传后世.<庄子>对贫困曾经做过哲学思考,而陶潜的诗作则更多抒写了对人生况味的体验,而认为寄情琴书,便可欣然自得,不以贫困为苦.这是音乐为贫困生活中的寄托.
<楚辞>云:”惟天地之无穷也,哀人生之长勤”.(<远游>);”长太息以掩涕兮,哀民生之多艰”(<离骚>)
陶潜的诗作也书写了对人生愁苦的体验,而人生长勤(“长勤”即长苦),欢寡愁殷,便需泛瑟自欣这是音乐为愁苦人生中的慰藉.
陶潜在其<归去来兮辞>中:不愿”心为形役”,就是追求精神自由.庄子以自由为人生第一要义,故拒绝楚威王重金之聘,说“我宁游戏污渎之中自快,无为有国者所羁,终身不仕,以快吾志.”陶潜在这一点上与庄子相通,因而遗落世事,息交绝游,以琴书为乐,以琴书消忧.这是以音乐消除寂寞.
嵇康有以琴自娱的志趣,说“但愿守陋巷,教养子孙,时与亲旧叙阔,陈说平生,浊酒一杯,弹琴一曲,志愿毕已”.陶潜所说“悦亲戚以消忧”,”清琴横床,浊酒半壶.黄唐莫逮,慨独在余”与之相通.他们的生活志趣有相同之处,此即魏晋名士,魏晋风度的共性.但陶潜对于后世文人生活情趣的影响显然比嵇康来得大,这是因为陶潜对于这种生活情趣有更多表述,更是因为嵇康还有刚肠疾恶,慷慨任气的一面,其人格不可企及,而陶潜逃禄归田,琴书自娱的作为则与一般文人,尤其与宋元以后的文人相近相通.
但识琴中趣,何劳弦上声
<晋书.陶潜传>对陶潜的个性以及生活情趣有一下描写:
未尝有喜愠之色,惟遇酒则饮,时或无酒,亦雅咏不辍.夏月虚闲,高卧北窗之下,清风飒至,自谓义皇上人.性不解音,而蓄素琴一张,弦徽不具,每朋酒之会,则抚而和之,曰:”但识琴中趣,何劳弦上声”!但识琴中趣,何劳弦上声在于强调超越音声,追求弦外之意,把握音乐美之所在,而不在取消弦声,否定弦声.这种独特的音乐美学思想是老子思想,魏晋风度与陶潜个性相融合的产物,是魏晋”得意忘言”美学思潮在音乐领域的反映,也是陶潜的人生态度在美学思想中的一种表现.
[/color]但识琴中趣,何劳弦上声的美学思想对后世曾产生深刻的影响,这表现于唐宋时出现的一批无弦琴诗,无弦琴赋,更表现于欧阳修等文人的审美情趣与美学思想.这种影响的产生则显然与陶潜的人生态度,生活情趣为想到多的文人所仰慕有关.

2004年09月27日

这个题目看上去很大,而实际只能说是历史点滴——中、西方史对比点滴。但毕竟长达三十个世纪——就是滴水,也早该成河了。这就是本文的特点,大则大矣,小则小矣。

  本文就从纪元前十八世纪说起。有一天,夏王朝最后一位君主姒履癸亲临“炮烙”现场取乐,他问身边的大臣关龙逢好不好玩,开不开心。如识趣,关龙逢当说:“好好玩我好开心好开心耶!”可这位人性至上的高级知识分子硬要说真话,说这种新刑罚太残酷了,不人道。姒君主一听,大为不悦:我只准你等与君同乐,不准发表与君心情不合拍的言论。既如此,你就去“尝试”一下吧。于是,把关龙逢给“炮烙”了。这就是说真话者的开端,也是中国恪守良知之知识分子的开端。此后几千年,中国刚正不阿之知识分子的命运,几乎无不与灾难并存。说到西方,它在本世纪还是混沌一片,自然乏善可陈。

  纪元前九世纪起(信史时代),中国开始有了准确纪年的历史。同期的西方诞生了一位重要人物,那就是希腊诗人荷马。

  纪元前八世纪。周王朝在本世纪受到蛮族的毁灭性打击,国王的尊严和中央政府的权威迅速衰退,封国逐渐脱离中央,各行其是。七十年代,中国历史进入二百余年的“春秋时代”,即“中国式城邦时代”。这“真是中国史定型的关键时代”〔1〕。遗憾的是,中国走了一条有别于希腊式城邦政体的路——官僚体制之路。至汉朝,中国已完整地“构成一个中央集权的官僚制度”〔2〕。官僚机构的过早发达(以郭沫若生前对西周金文的考证,庞大的官僚机构可追溯至殷代),严重制约了中国政体的多元发展思路。如果把“官僚机构”比作一种病的话,那么它是猛于一切不治之症的顽症。一个肌体得了不治之症,它十分干脆,不治即亡,基本没有多少纠缠。“官僚机构”这个顽症可就不同了,它存在于抽象的文化(即人的灵魂深处)“肌体”里,一旦定型,便会代代相传,逾千年,不仅不见衰败的迹象,还会随着时间的推移滚雪球似的无限庞大、臃肿乃至现代化。从中国历代官与民的比例上可见一斑:西汉1∶7945;唐高宗1∶3927;元成宗1∶2613;清康熙1∶911〔3〕。希腊式城邦政体(合议制),恰恰防止了官僚机构的形成。所以,周王朝的影响只能是中国的,而希腊的影响却是世界的。

  纪元前七世纪。不断升级的封国间战争,使本世纪国与国之间形成了弱肉强食的政治格局。超级封国,往往利用强大的兵力和威望,代替没落的周王朝中央政府行使职权,谓“挟天子以令诸侯”。本世纪的西方出现一部“血法”(雅典执政官德勒可编撰),规定:偷一把蔬菜,即处以死刑,残酷之极。我想,此法的象征意义恐怕要大于实际意义。与其残酷,才为人所关注;与其残酷,才能增强人的法律意识。似之拙举,助长的不仅仅是贪污受贿,更是在灭绝人们头脑中本来就十分淡漠的法理。

  纪元前六世纪。春秋时代由本世纪进入它的后期,封国继续被吞并,国君继续被逐杀。在西方,雅典执政官梭伦创立了公民议会和司法陪审制度(前594年)。雅典人的这两项开天辟地的伟大创举,无疑是对人类文明的最大贡献之一,其影响至今无二。几十年后,罗马王国改建为共和国,设执政官和元老院(前509年)。罗马共和国建立的第三年,中国发生了著名的伍子胥鞭尸事件。

  纪元前五世纪。本世纪迎来中国的第一个黄金时代——大黄金时代。在文化史上,大黄金时代具有空前重要的地位,其学术思想,是中国最光荣、最长期的百花怒放、百家争鸣的时代。首先,孔丘以六十三岁高龄,用他的观点对《易经》、《春秋》、《诗经》、《书经》、《礼经》(合称“五经”)五部古书加以编纂删订(“五经”从此支配华人学术思想达两千余年)。其次是儒、道、墨、法这四种重要思想的形成,使大黄金时代的辉煌达到顶峰。同期的中国思想界,可谓名流云集(诸子百家),如孔子、孟子、荀子、老子、庄子、墨子、管子、韩非子、孙子等等,数不胜数。更值得一提的是,这一时期的科技发明,中国独居世界。《韩非子·外储篇》载,公输般用竹子、木材造一鸟鹊,放在空中飞三天掉不下来;南北朝时,有一和尚用木材造一飞鸟,在空着中飞翔几天,最后又回转原处降落。“不幸的是,这些比发明飞机还早的发明,都被‘奇技淫巧,典礼所禁’这个观念所扼杀”〔4〕。因此,中国古代的科学精神,未能很好地沿续和影响世人,致使科技的走向,呈“断代式”发展。此间的西方,明显逊于中国。可记述的有:一、希腊南部诸城邦组成“伯罗奔尼撒同盟”,推斯巴达为盟主(前500年);二、490~480年间,波斯和希腊爆发两次战争,均以波斯大败告终;三、469年,苏格拉底诞生;四、450年,罗马公布十二铜牌法;五、427年,希腊哲学家柏拉图诞生。

  纪元前四世纪。这是一个战争的世纪——各封国纷纷宣布独立,国君改称国王,地位与从前管辖他们的周王朝的国王平等。独立后的秦国,在法家巨子公孙鞅主持下变法成功,一改其落后、偏僻的小国形象,令各封国惊骇失措。法律意义上的变革所带来的影响,一般而言是持久的,但以人治为框架的“法治”例外。本世纪的西方有三位影响深远的哲学家在我们面前闪回:希腊哲学家苏格拉底被政敌诬陷,在狱中服毒自杀(前399年);希腊哲学家亚里士多德诞生(前384年)、逝世(前322年);希腊哲学家柏拉图逝世(前347年)。在此,需多着些笔墨的是苏格拉底。史载,当苏格拉底面对古雅典不公平的法律审判时,舆论以及司法都为他打开了一道越狱之门,然他却选择了法律所判定的死刑。为此,他的学生克里同大声疾呼:对抗不公平的审判是你一生追求的正义,你为何不选择越狱的正义?!苏格拉底说,此时越狱确是一种正义,但遵守即使是不公正的法律,同样是一种正义的要求,否则人人都会以自己认为的“正义”为借口破坏社会秩序。在价值上,后一个正义也许要比前一个正义更为重要。这大概就是西方生机勃勃的法律文化的来处。

  纪元前三世纪。砍砍杀杀的二百六十年的战国时代,以秦国吞并各封国终结于本世纪,崭新的有别于周王朝国度的大一统局面出现,秦国由此建立起中国的第一个中央集权政府。中国人万世大一统的思想基础就是那个时候奠定的。嬴政为推行他的治国策(即独裁专制),不惜焚书坑儒,用极为残酷的手段对付全国手无缚鸡之力的知识分子。专制主义者固执地认为,只要在灵魂深处紧紧地控制住知识分子就万事大吉了,政权和社会就稳定了。历史却证明,正相反,如柏杨所言:“专制政体最大的缺点之一是,统治阶级多半一代不如一代。”〔5〕所以,看似庞大辉煌的秦王朝,仅存十六年就灭亡了。同期的西方,除罗马共和国铸造出银币(银做为钱币进入流通领域自纪元前264年开始)外,一直在拼杀之中。这是西方史的特点:要么乏善可陈,要么影响甚巨。

  纪元前二世纪。中国人被称为汉人、汉民族,中国字被称为汉字,中国语被称为汉语,自本世纪(西汉王朝)始。除外,还有至关重要的一件大事发生,那就是儒家学派借助政治的力量,贬损诸子百家的学术思想,使儒学成为中国人惟一法定的正统思想。从此,中国人永久地被这个单一而保守的思想给僵住,影响至今。在一个国度,某种思想一旦成为“惟一”,而且“法定”,那这个民族就休想再有什么想象力和灵性了。所以,对中国人灵性的杀伤力,儒学思想甚于秦始皇的万世统一。但如果没有秦始皇这个万世统一的始作俑者,儒学思想又何以能大行其道呢?看来,集权才是万恶之源。与西汉王朝比,本世纪的西方仍“不成体统”:希腊各城邦除斯巴达外,虽共组亚该亚同盟,但在组织上,不具西汉王朝那样的高度统一格局。纪元前的中西方世界,看似混沌一片,或者说都没有离开过打打杀杀这些血腥场面,但大致的走向仍各不相同,比如在学术上,西方就从没出现过类似中国的绝对高度统一的所谓思想体系,至于组织体系,也必然地受到各自所“背依”的思想体系的影响。“希腊思想是贵族思想,然而不是王家思想”〔6〕;中国思想不一定是贵族思想,但却是王家思想。故言,中西方世界的诸多不同,是从一开始(混沌世界)就注定了的。

  纪元前一世纪。中国与匈奴汗国的战争,从上个世纪一直延续到本世纪。此属对外战争。在国内,统治中国西汉王朝的皇族(刘邦后裔),在享受太久的富贵后,不可避免地步入腐败和堕落的轨道,政权遂转嫁到皇室女流之手,形成所谓的“外戚政治”。为什么男系家族接班掌权就天经地义,而女系家族获得某个政治位置就叫“外戚政治”呢?在中国的史书上,“外戚政治”一词屡见不鲜,说明在史学家思想深处,根深蒂固地存在着宗法思想。皇权虽死,但历史表述者们的皇权思想却还活着,这恐怕才是最可怕的。这种历史表述往往给人以错误的连贯认识:只有男根才有资格延续一党一族的香火,换换面孔就是“外戚政治”(或曰多党政治)。这一逻辑,实际是在为新独裁专制者张目,必须批判和唾弃。此间的西方,看来要比中国热闹些:(一)罗马共和国执政官美立阿斯改革内政,取消穷人四分之三的欠债。(二)罗马共和国发生持续三年的“奴隶战争”,最后奴隶军溃败,奴隶斗士斯巴达克斯和他的部属六千余人,全部被钉死在十字架上,悬尸数十公里(前71年)。(三)罗马共和国“前三雄时代”开始,执政官庞培、克拉苏、恺撒,三人结盟,轮流主持国政(前62年)。(四)罗马“前三雄时代”结束。执政官庞培嫉妒恺撒的成功,与元老院联合,下令免除恺撒高卢(法国)总督的职务。恺撒遂回军,攻陷罗马城,庞培逃亡。元老院遂推选恺撒为执政官(前49年)。(五)罗马元老院给渥大维(恺撒养子)一个“奥古斯都”(伟大)的尊号,虽名义上不是皇帝,但与皇帝无异。罗马共和国成为罗马帝国(前30年)。(六)耶稣诞生(前4年)。

  一世纪。从本节开始,与纪元前的区别是:纪元后是从少到多计算数字,纪元前的时间却必须倒着数。言归正传。世纪初(00年),统治中华帝国的西汉王朝灭亡。中间经历了一个短暂的王莽时代,最后迎来东汉王朝(刘秀建立),中国再现大一统格局。而西方,仅耶稣被钉死在十字架上(30年)一事可记。

  二世纪。本世纪的中国有两件事可载:159年,中国第一个宦官时代(即当朝政权被宦官所控制)出现;大一统在一次农民大暴动后瓦解。西方则出现一位凶暴荒淫的罗马皇帝康摩达,他被元老院下毒后绞死(192年。同年,吕布刺杀董卓)。

  三世纪。中国家喻户晓的“三国时代”(220~280年),便出自本世纪,其前身为东汉王朝。“三国”(曹魏帝国、蜀汉帝国、东吴帝国)共维持六十一年,后为新兴的晋王朝替代,中国重归统一。在时间上与中国的“三国时代”大致相同的,是罗马的“三十暴君时代”,计五十三年,三十个罗马皇帝,仅一人善终,余者皆死于非命。相反,中国的“暴君”(暴乃恶也,君乃善也,恶而善,是个什么东西?在此引为警觉的不是“暴君”这个怪物,而是文化不分善恶的包容度)大多倒都能寿终正寝,此为中西独特之一别。

  四世纪。从本世纪开始,中国进入长达二百八十六年的大分裂时代,残暴、荒淫、混战是其全部特征。比较来说,西方稍趋明朗:罗马皇帝戴克里先辞职(305年);罗马帝国驻不列颠军团司令君士坦提逝世,部将拥立他儿子君士坦丁称帝,回军进攻罗马城(306年);君士坦丁大帝颁布有名的《米兰诏书》,宣布信教自由(313年);君士坦丁大帝自罗马城迁都拜占庭(330年),改名为君士坦丁堡,即今土耳其伊斯坦布尔。

  五世纪。中国仍处在混战、分裂时代。西方世界相对沉寂,惟值一提的是法兰克部落侵入高卢(法国),建立法兰克王国(486年)。

  六世纪。本世纪八十年代,中国长达二百八十六年的大分裂时代结束,隋帝国横空出世,中国再归统一。世纪初,正当中国混乱不堪的时候,西方人却完成了《查士丁尼法典》(529年),以及《罗马法典摘要》和《查士丁尼法制》(533年)。法治的传统,始终是西方史的主线。民主的传统(合议制)亦然。早在城邦时代,希腊的执行官就已经由民选产生了,并轮流执政。希腊城邦制度的可持续运转,得益于其贵族阶级的内部民主。内部民主是普遍民主的前提,如一个社会连最起码的内部民主都没有(通常表现为某一单极思想统领一切),普遍民主也就无从谈起。中国“城邦时代”延续了人治,建立起“官僚机构”;希腊城邦时代选择了法治,建立起“宪政政体”。可以说,这是中西之别的根本。

  七世纪。世纪初叶,刚刚恢复统一的中国,再历混战,使全国三分之二以上的人口死于刀锋和饥饿,其罪魁祸首为“暴君”杨广。隋王朝在杨广手中仅十余年,就被唐王朝取而代之。唐朝人在一片瓦砾中,收拾残灰余烬,上下一心,兢兢业业,迅速走向繁荣,使中国历史进入第二个黄金时代(长约130年)。武则天在本世纪打破男人一统天下的格局,登上皇帝宝座,成为当时超级大国的第一位女元首(实际在公元674年,武则天就已经和她的第二任丈夫李治以“天皇天后”的名义同理国事了,并享受国家元首待遇)。在中国,一涉及妇女话题,自然地就会联系到封建或解放不解放的问题上去。其实无论从妇女参政,还是妇女的衣着,在唐朝都已经是领先世界潮流的了。至于盛唐时期的先进文化为什么不能成为影响世界的文化,仍不外“王家思想”作祟之故。尽管中国女性实际执掌国家政权的个案早于西方国家,但那也不过是血腥斗争的结果,或曰“风水轮着转”罢了,并非制度使然。与中国相比,本世纪的西方平静而沉寂。倒是邻国日本在盛唐时期实行的“大化改新”——全盘吸收中国文化,非常引人注目。我们必须注意:经过十二个世纪之后的1867年,当日本人发现中国文化已过时了的时候,即毫不犹豫地将其抛掉,又来了个全盘西化——只短短数年,日本就从荒陋落后状态中,一跃而成为一个全新的现代化年轻国家。日本人虽有一边倒的“劣根性”,但从自省的角度看,这也不失为该民族的一大优点。

  八世纪。本世纪一开始,武则天的周王朝即告灭亡,唐王朝复辟。五十年代后,中国的第二个黄金时代在李隆基手中结束,中国经一百三十年的超级强大,又开始走向下坡路。西方的法兰克国王丕平,在五十年代把意大利中部地区献给了教皇(756年。同年,杨玉环缢死马嵬坡)。

  九世纪。中国的第二个宦官时代与黑暗、混战并存。唐政府后期,与历朝后期一样,彻底腐败和彻底糜烂。在这一背景下,“人民向官员哀告,好像向猪哀告”〔7〕。官逼民反,民不得不反,于是就有了黄巢起义。这时的西方再也不容我们忽视了:不列颠七小国中的西塞克斯王国,就在本世纪初,消灭了其他六国,建立起英格兰王国(829年。以中国的传统叙述方式而论,这一史诗很可能被书写为“西塞克斯王国统一了大不列颠”)。谁都不会想到,这个西方小国,在后来几乎统治了整个世界,一度称为“日不落帝国”。由此向前推十二个世纪,即纪元前三世纪,秦国同样是以小国地位灭其他六国,建立统一的中央政府。威塞克斯王国与秦国都是小国灭强国的范例,甚至连战绩都一样,各灭六国,然其后世影响却大为不同:秦国留下的“文化遗产”是仅供一游的长城,以及让知识分子痛心疾首的焚书坑儒,更有危害广袤的专制传统。威塞克斯王国经演化为今之英国,它留下的文化遗产,除了全球化的英语和英国下的蛋——美国(今为民主、科技、政治、经济、军事、文化超强大国)外,更重要的是它的制度文明。

  十世纪。中国较上个世纪更为黑暗。本世纪零零年代,唐王朝灭亡后,再无一个政府能单独接替它遗留下来的广大而破碎的版图。各战区就在它们既有的领土上,公开宣布独立,于是中国又陷入分裂。好在时间不长,新兴的宋王朝取得天下,“不过已不能恢复永逝的黄金时代”,版图也大大缩水,“中国人千余年的经营扩张,全都丧失”〔8〕。本世纪末叶,西方的法兰克改国号为法兰西王国(987年)。

  十一世纪。宋辽对抗在本世纪零零年代和解,两国之间保持一百余年的长期和平。由于宋帝国本身太衰弱的缘故,西北一隅的夏州自行建立了一个西夏帝国,当时的中国事实上是一个三国分立的局面:宋、辽、西夏。这个局面,一直延续到十三世纪。同期的西方第一次兴起十字军,由法国贵族统军东征(1096年),历时四年。

  十二世纪。强大的辽帝国在本世纪发生内乱,其所属女真部落在东北独立,建金帝国,并以雷霆万钧之势,先后击败辽、宋两帝国。本世纪的西方,又在法律建设上向前迈进一大步。1164年,英王亨利二世颁布《克拉林敦约章》,该条例使司法陪审员制度成为现实。从此,人权首先在不列颠获得法律上的具体保障。毫无疑问,这是一项对全人类文明影响巨大、贡献巨大的制度。从纪元前六世纪雅典执政官梭伦创立司法陪审制度至今,经过了十八个世纪,司法陪审制度终得以正式确立和实际运用。即便是以二十一世纪的眼光来看,英王亨利二世颁布的《克拉林敦约章》也是超前的,划时代的。此后世界人权理论的实践与完善,无不得益于《克拉林敦条例》的颁布。如果没有该条例的诞生,世界人权的法律定位肯定要推迟;世界人权的状况,也肯定不会比今天乐观。

  十三世纪。在荒凉穷恶的浩瀚沙漠上崛起一个蒙古帝国,它的强大超过女真百倍。因此,它“一口”就吞并了中国版图上的四个帝国:辽、西夏、金、宋,汉民族第一次全部被异族统治。而西方继续以其强势推进人类文明的发展:英国在它的不列颠小岛上,颁布了《大宪章》,创立了国会。《大宪章》规定,未经法庭审讯,不得对人民逮捕监禁。这是英国有宪法之始,也是全世界有宪法之始。然“自然”惯了的英王亨利三世,却屡次违反《大宪章》,蒙福尔伯爵不得不依法把亨利三世囚禁(纪元司法,首拿国家元首开刀,在我们是不可想象的。尽管在我们的古典律例中也有“王子犯法,与庶民同罪”的法学理念,但同时却又被“刑不上大夫”的王权思想抵消了,最终,法律还是成为“有权阶级”的统治工具,仅此而已),召集教士、贵族、武士、平民代表,成立议会——世界各国自此开始有国会(1265年)。至1295年,议会政治在英国走上正规。事实上,西方在为他们的助跑做准备了。

  十四世纪。蒙古统治者在人民的不断反抗下,其统治于本世纪八十年代被推翻,取而代之的是以汉民族为主的明王朝,其寿命为二百九十四年,长达三个世纪。但这并不等于中国人恶运的结束,反而是一个更漫长黑暗的开始。就在本世纪的最后三十年,中国不幸成为恐怖世界:朱元璋在各州县设有“剥皮亭”,官员一旦被指控贪污,无需审判即被剥皮,悬皮于亭中,以示警戒。仅中央政府副部长以下和直辖省(江苏、安徽两省)的大小官员,因贪污罪名死于监狱或被判刑的,每年都有数万人。官员们每天早上入朝,即跟家人诀别,到晚上能平安回来,那就是三生有幸了。一年三百六十五天,天天绷紧神经,真可谓生不如死。当时的首都南京如此,全国各地皆然。柏杨说:“中国文化和物质文明,一直到本世纪都比欧洲进步,但朱元璋使这种进步停止。以致十九世纪欧洲入侵中国时,中国已堕落成一个白痴般的部落,至少落后三百年。”这“三百年的落后,才是朱元璋和他的明政府无与伦比的罪恶”〔9〕。这具体归纳下来有三大重要内容:(一)人权的蹂躏(“诏狱”和“廷杖”);(二)绝对专制制度的建立(省部级高官直接由皇帝提拔使用);(三)文化酱缸的加深(文字狱和八股文)。英国于一百年前(十三世纪)即颁布《大宪章》,保障人权,非经法院审讯,对人民不得逮捕监禁,而其时的中国明政府却出现了严重践踏人权的诏狱和廷杖;英国于一百年前即建立国会,约束君主权力,中国却使君权无限扩大。柏杨总结说:“我们曾一再提及中国古代政治思想中缺乏人权观念,但故意建立摧残人权的制度,则由朱元璋创始。”〔10〕在西方,除英法发生过两次战争外,再就是意大利诗人但丁的逝世(1321年),别无惊天大事发生。

  十五世纪。本世纪的中国,可谓“奄奄一息,暗无天日”〔11〕。(四十年代,中国迎来第三个宦官时代)。暗到什么程度呢?朱元璋在位的时候,他的血腥政策本来就已使中国堕落成一个至少落后欧洲三百年的“白痴部落”,然其子朱棣新官上任“三把血”,他一即位就大行其父的血腥政策,首先把他看不顺眼的中央政府内部的许多部级官员及其家人和亲友赶尽杀绝,甚至连这些人的同学和朋客也大都除尽了(一次性枉杀一万四千多人)。而此间飞速发展的西方,愈显朱棣政府“奄奄一息,暗无天日”的一面。或有人以郑和七下西洋为例,举明朝政策积极的一面。然我们不得不说,郑和七下西洋的规模和技术虽说都远在同时代的哥伦布探险之上,但就其目的而言,完全是白痴般的狭隘举动。与欧洲航海探险家殖民和扩张姿态不同的是,“郑和舰队不管到了什么地方,不是去寻找黄金和宝石,不是去掠夺财富回运,而是一心把财富送出去,携金带玉大包小裹去热情拜会当地统治者,向他们宣扬中国皇帝的仁厚关怀,包括劝说他们承认大明中国的宗主权”〔12〕。郑和七下西洋,仅前两次就动用军舰一百一十艘,战士六万人。而如此兴师动众,无非“只是去拉拉人情关系而已”〔13〕,这真让人哭笑不得,也使后人对前人的愚蠢感到无地自容。相反,倒是西方表现出了前所未有的活力:1453年,历时一百一十七年的英法百年战争,以英国大败而告终。之后,欧洲的文艺复兴运动进入高潮,西方人以无与伦比的蓬勃精神,投向海洋。世纪末叶,伟大的哥伦布船长发现新大陆(1492年)。两年后(即1494年),天主教教皇亚历山大六世颁布划界令,沿北美洲东海岸纵划一线,西归西班牙(包括北美洲与南美洲大部),东归葡萄牙(包括南美洲的巴西与非洲全部)。

  十六世纪。东、西方文明的“分水线”,可从本世纪划起;东、西方的发展方向,亦从本世纪分道扬镳。本世纪的中国,仍处在大黑暗时代,诏狱的廷杖声和抗暴声,混杂着八股文的吟哦声,响彻中华。而此期的西方,其扩张的速度与进步可谓一日千里,诸如进入高峰期的文艺复兴运动;现代民族国家的逐渐形成;葡萄牙商人从浑噩的明政府手中取得澳门作为殖民地;欧洲人灵性的复苏;麦哲伦航海环绕地球一周,证明地球是圆的(1520年);西班牙人开始涌入新大陆,大量殖民,占领古巴(1508年)、墨西哥(1519年)、秘鲁,又在亚洲占领菲律宾群岛;哥白尼的《天体运行论》发表,揭示出宇宙中心不是地球,而是太阳(1543年);伽利略在比萨斜塔试验物体落下速度,发现落体规律,后来又发现摆动规律,至钟表出现;西班牙无敌舰队进攻英国失败,自此西班牙没落,英国取而代之(1588年)等等。本世纪中国虽有三大名著(《三国演义》、《水浒传》、《西游记》)问世,但在总体上,已被西方远远甩在后面。

  十七世纪。本世纪四十年代前,中国继续大倒退,政治之黑暗,为历史之最,这往往也预示了一个朝代的结束。四十年代后,满洲人爱新觉罗取代腐烂了的明王朝,汉民族第二次沦为亡国奴。八十年代,在大黑暗的浓雾中,中国竟奇迹般地迎来为时一百年之久的第三个黄金时代。只是这个黄金时代,比唐朝时期的那个黄金时代,更少了些人文精神。而同期的西方各国,正在做起飞的最后准备。因而它们在领土、思想、学术、改革等方面,继续扩张和进步:英国设立东印度公司,积极向东方侵略(1600年);荷兰征服东印度群岛(印尼)、中国台湾、澎湖;英国、荷兰分别殖民北美洲,英国又把荷兰人驱逐;英国征服印度;牛顿发明微积分,发现地心吸力;伽利略发现太阳大、地球小,地球环绕太阳运行。而本世纪西方的焦点,主要是英国革命。最初,先是英国国会向国王查理一世提交《权力请愿书》,要求非经国会同意,不得拘捕人民,查理一世被迫签字(1628年);接着,查理一世下令解散国会,继续实行独裁专制(1629年);英国国会向查理一世提出《大抗议书》,指责他的种种不法行为(1641年);英国革命爆发(1642年),四年后,英王查理一世兵败被擒(1646年),英国国会法庭判决查理一世死刑,斩于断头台,之后,英国宣布成立共和国(1649年);三十九年后,英国发生不流血革命(1688年);次年(1689年),英国国会通过《权利法案》(严禁非法逮捕,民主政治确立),英国专制政治从这一年起,完全消灭,这是英国对世界的又一伟大贡献。

  十八世纪。可以说,本世纪是人类历史的转折点。十六世纪以前,人类一直在缓慢地步行。但自十七世纪起,欧洲的步伐加快。进入十八世纪,欧洲开始跑步,科学上和意识形态上,均有重大突破,从而把人类带入一个崭新的世界。科学方面有:约翰发明飞梭;哈格理夫斯发明纺纱机;英国人瓦特发明蒸汽机(1769年),人类由此脱离手工业时代,进入机器时代(这一划时代的发明,使东、西方从此分歧为两个世界)。意识形态方面有:法国学人孟德斯鸠出版《法律的精神》,提出立法、司法、行政三权分立理论(1748年);卢梭创立“天赋人权学说”(它奠定了人权的尊严);美国脱离英国独立(1776年),选举总统,实行三权分立(是孟德斯鸠“三权分立”理论的伟大实践),成为世界上第一个没有帝王而由人民选举国家元首的国家;法国大革命爆发(1789年),发表《人权宣言》(距十七世纪英国发表《权利法案》正好一百年),这是卢梭人权学说的伟大实践,民主思想从此开始传播,其势不可遏止;法国改建共和国,斩国王路易十六于断头台(1792年)……同期的中国对西方发生的这一切皆茫然不知,也就更不会引起丝毫震动。不仅如此,到本世纪八十年代黄金时代一结束,大黑暗马上又卷土重来,中国的不幸重新恢复!

  十九世纪。“本世纪是西洋——包括欧洲和北美洲的黄金世纪。但在中国,却是最羞辱的痛苦世纪,大黑暗日增沉重。欧洲人以及由欧洲分支过去的美洲人,在人类接力竞赛的中途,由跑步而飞奔。人类历史上从来没有过的事物和从来没有过的思想,风起云涌般出现,西洋文明开始形成一种巨流。”〔14〕欧美两大洲进入一个追求科学、追求人性尊严的伟大而崭新的时代,同时还以疯狂的“姿态”向外猛烈扩张。科学发明有:发明火车铁路、电灯、有线电报(美国人摩尔于1844年发明)、无线电报(意大利人马可尼于1897年发明)、电话、电车、电影、X光、留声机、轮船(美国人富尔敦于1803年发明)、打字机等等。开发改进的有:发现石油、开创邮局、开凿苏伊士运河、提高妇女权利和地位(其中包括1854年确立的军中女护士制度)、厂矿企业林立、资本家兴起,以及国际劳工协会(第一国际)、国际社会主义者劳动联盟(第二国际)的先后建立等等。同时,绝对专制政体和无限权力的君主制度开始在欧美没落,议会民主政府迅速普遍兴起;各种前所未闻的思潮,如资本主义、国家主义、帝国主义、大国沙文主义、民族主义、军国主义、无政府主义、社会主义、共产主义,纷纷产生;不断发明和更新战争武器:如大炮、巨舰。至本世纪四十年代,中国对西方的上述新生事物,仍一无所知。大黑暗如故,贫穷落后如故,科举八股文如故,愚昧无知如故,贪污腐败如故,男人作揖叩首如故,女人缠小脚如故。一切如故,且步步恶化。本世纪九十年代的戊戌变法运动,好不容易给中国人一个觉醒、自新的机会,最终还是命运不济地被守旧的冥顽势力击败。说到这里,感情上不可避免地要提到光绪这个以卵击石的清末改革者。在他身上,最大的不公不是来自慈禧势力对他的囚禁,而是史家(当然,不仅仅是这一“家”)对其历史地位的公然“囚禁”。以今为例,“人们看待历史,也还是以成败论英雄。在多到不可胜数的满清皇帝们的电视连续剧中,从来就没有光绪的戏,即便有,也大都是病病恹恹、低声下气地站在‘老佛爷’身边。……在中国,‘伟大人物’从来就没有失败者的份;‘伟大人物’从来都是权倾天下的‘英雄’。这个细节万万不可忽略。这是从统治者到平头百姓,从专家学者到各类艺术家们都愿意分享的审美期待”〔15〕。从这一意义上说,光绪就是个政治性敏感人物。换句话说,一切被废黜的政治性人物,一般都有较长的敏感期,似光绪能“敏感”到今天,在意料之外,也在意料之中。

  二十世纪。“对中国而言,二十世纪是一个惊涛骇浪的大世纪,自从纪元前二十七世纪、黄帝王朝建立的那一天起,所发生的事情的总和,都没有这一百年来所发生的事情那么多那么重大和那么严重——推翻清王朝,结束历时约五千年之久的专制政治,建立亚洲第一个民主共和国。”〔16〕在这个世纪,中国被动地与西方进行了面对面的“亲密接触”……1900年5月25日,那拉兰儿竟然生出一个天大的气魄来,下诏向世界所有跟中国有邦交的国家宣战。世界各国最初不敢相信自己的耳朵,得到证实后,无不吓一跳。于是,英、美、意、德、法、日、奥、俄,组成著名的八国联军,在天津大沽港登陆。7月20日,八国联军攻陷北京,距慈禧向全世界宣战仅五十五天。十数万赤着背、念着咒语,疯狂上阵的义和团,和步履蹒跚、手握大烟枪的正规军,在八国联军面前一败涂地。这时曾有天大的气魄向全世界宣战的那拉兰儿却如丧家之犬,带着她的受气包皇帝向西逃去。大敌当前,安危当前,这位老太婆仍没忘在逃走之前把皇帝最宠爱的一位妃子投到井里淹死。当然,中国三千多万老百姓的安危她就更不会管了,百姓只能妻离子散、家破人亡,别无选择。而躲到西安去的那拉兰儿及其皇亲国戚,每天照样是锦衣美食,快快乐乐地看戏,天塌下来,有黎民百姓为他们顶着呢!

  写到这里,我想起2002年春以一百零一岁高龄去世的英国老王太后,她之所以令世人敬仰,是因为她在英国饱受战争之苦的时候,她一步也没离开过伦敦,而是与人民同在。1900年的那拉兰氏呢?她在给人民惹下天大灾祸后就毫不负责任地逃之夭夭了,并且到一个没有生命危险的地方,继续她的歌舞升平的好日子去了。真没想到,我的这篇随笔,竟然是在中西两位贵夫人的对比(当然是天壤之别了)中结束的,实出意料之外。

注释:

  〔1〕〔7〕顾准:《顾准文集》,贵州人民出版社1994年版,第121、349页。

  〔2〕黄仁宇:《中国大历史》,三联书店1997年版,第42页。

  〔3〕引自《生活文摘报》1999年1月1日。

  〔4〕南怀瑾:《老子他说》,国际文化出版公司1991年版,第72页。

  〔5〕柏杨:《中国人史纲》(上),中国友谊出版公司1998年版,第244页。

  〔6〕〔8〕〔9〕〔10〕〔11〕〔14〕〔16〕柏杨:《中国人史纲》(下),中国友谊出版公司1998年版,第96、103、244、259、433、515页。

  〔12〕〔13〕韩少功:《人情超级大国》,见《读书》2002年第1期。

  〔15〕田野主编:《皇帝与流氓》,太白文艺出版社2001年版。   

2004年09月23日

宋江这个人

□ 刘慧儒

 

小时候看《水浒传》,最失望的是宋江这个人。说是爱习枪棒,专好结交天下豪杰,可一卷读完,未见他使出像样的一招一式。遇到险境,不是叫苦,就是跌足,要么拨马先逃,潜身躲藏,全无半点英雄气概。真纳闷鲁智深、林冲、武松、李逵诸雄何以竟与此等人为伍,并尊其为头领!
  涉世稍深,又看出宋江伪善和权诈的一面。他谦恭礼让、乐于助人,骨子里却工于计算,支配欲极强。这一印象,后来在金圣叹的评本里得到了印证。可我始终不解的是,梁山泊人才济济,施耐庵何以让这么个人位居群雄之首,因而觉得这是小说的一大缺憾。
  近读《水浒传》,忽然茅塞顿开:施耐庵不正是通过宋江的成功以警世人吗?
  宋江到底是个什么样的人呢?
  宋江以忠义的化身自居,连自我介绍时也忘不了说”俺是梁山泊义士宋江”,但细检其所为,殊难找到忠和义的踪影,充其量只有一些博施的善行而已。我们知道,”施”与”义”是两码子事:《三国演义》里曹操笼络关羽是”施”而非”义”、关羽千里走单骑才是”义”。宋江的”仗义疏财,扶危救困”,说穿了,予人以利的成分多,行义的因素少,《水浒传》作者用了”散施”二字,可谓大有深意存焉。所谓散施,不管张三李四,逢人送钱是也。他这头救济虔婆,那头赍助帮闲,为做媒的王婆”做好事”,让卖药的王公称”恩公”,就是杀人后畏罪潜逃之际,银囊也不见羞涩:栖身富豪柴进庄上时,仍多番背着主人馈银与同为避难者的武松;在清风寨,每日变相送钱给相陪的下人。后来身为囚徒在发配途中,还是像散财童子般一路乐施不疲。遇上劫贼,奉行的也是以不变应万变的金钱外交:”我自多与你们银子相谢。”到了江州牢城营,更是上下打点,管事的、听使唤的,里里外外,能塞钱处一味地塞。银子春霖般哗哗下过之后,我们便读到”满营里没一个人不喜欢他”。
  宋江上梁山之前的所作所为,除施舍银两外,实在乏善可陈。而疏财也并非具体地周人之急,扶人之困,而是泛泛地予人以好处,广结人缘。当然,予人以好处,本无可厚非,只要当事人手有余财,尽可多多为之,受惠者不管困厄与否,总会高兴的。只是,宋江出身农家,职业不过是县衙的押司,每月进项顶多几两银而已,终年积蓄的财,也不够他痛痛快快地疏上一次半次。单靠正当收入,”及时雨”这响亮的名头无论如何是赢不来的。
  宋江收入菲薄却大行慷慨之道,不免有点蹊跷。他散施的银子究竟从何而来,《水浒传》未作正面交待。但在讲到宋家隐秘的地窖时,有一段闲文颇堪玩味:
  且说宋江,他是个庄农之家,如何有这地窖子?原来故宋时,做官容易,做吏最难。为甚的做官容易?皆因那时朝廷奸臣当道,谗佞专权,非亲不用,非财不取。为甚做吏最难?那时做押司的,但犯罪责,轻则刺配远恶军州,重则抄扎家产,结果了残生性命,以此预先安排下这般去处躲身。(第二十一回)
  宋江挖这个藏身的地窖原来是因为做吏难。做吏为什么难?解释是:做押司的,一旦犯罪,轻则发配,重则问斩。其实,这句话并未正面说明做吏有何难处,只是强调为吏者犯罪难逃法网而已。古往今来,有罪则有罚,不管犯人为吏为官还是为民;至于为吏者知法犯法,量刑较重,乃是各朝通例,非独宋代如此。所以这句话并不在解释做吏难,更像是搪塞。这不似作者一时疏误,而是用心之笔。写到宋江时,作者每每用一些囫囵话把行文分成两个层次:表面上极力塑造、维护宋江的正面形象,在深层却又解构它、戳穿它。上面引的那段话也是这样:作者一方面告诉读者,当押司的有莫大的风险,另一方面却以文不对题的解释否定了这一风险。也就是说,宋江挖地窖并无特别理由。没有客观风险而预先安排退路,想必另有隐情。耐人寻味的是”重则抄扎家产”这句话。量一区区押司,有何家产值得惊动官府查抄?可见押司职位虽低,也有致财的可能。宋江倒不像是聚敛盘剥之徒,但他收入微薄,却”端的挥金如土”,这如土之金出自何处,不能不说是一大疑案。而他家那口地窖子恐怕是个有提示性的注脚。
  地窖子看似作者轻轻带过的闲笔,其实是理解宋江所谓”忠”的关键文字。地窖作为避害的一窟与另一窟——梁山,一暗一明遥相呼应。梁山是水外之地。如金圣叹所说,《水浒传》之为书名,就是取梁山在水涯彼岸之意。水在王土之滨,浒又在水外,梁山泊超出了”率土之滨”的畛域,上得梁山便不再是王臣。宋江掌权后,梁山泊造兵符印信,设黄钺皂盖等违禁之物,俨然是朝廷的排场。相比之下,地窖子虽无其威风,但却有其功用;它不在王土之外,然在王土之下,同样摆脱了朝廷律令的约束。蛰伏地窖,便是置身于国家法度之外。说到法度,有一个细节给人印象很深:宋江在发配途中被请到梁山大寨。花荣要给他开枷,他作色道:”此是国家法度,如何敢擅动?”一个擅字,多么凛然。可后来被蒙汗药麻翻,李俊把他救下并开了枷,并不见他醒来后动问,”国家法度”如何不在了。此后在李俊家盘桓数日,也没想到要重新戴枷。如果说,这枷是在他无知觉时别人除去的,没有他的干系,那么在穆太公家借宿时,确确实实是自己打开的。当两个公人说”这里又无外人,一发除了行枷,快活睡一夜”时,宋江应声道:”说得是。”公人在蒙汗药事件前,一路未曾建议去枷,可现在他们领悟到,宋江在梁山泊生死弟兄们面前只是作秀,故尔加一句”这里又无外人”的知情语。
  宋江每被视为无条件地忠君,是因为他甘领刑罚而不愿落草为寇,即使上了梁山也心怀朝廷。他受刑是因为杀婆惜,杀人后,他信誓旦旦对苦主闫婆说:”我是烈汉,一世也不走,随你要怎地。”好个烈汉!没过片刻,被闫婆扭结到县衙门口时,就瞅个空子开溜了–躲到国家法度无法进入的地窖子里。后来从地窖里爬出,也不是投案伏法,而是四处寻找保护伞隐身匿形。最后也是由于大赦有望、缉捕难逃才去自首的。可见,宋江的伏罪是有选择性的。法在他眼里不是具有普遍约束力的国家大典,仅是权衡利弊时的一个参数。伏罪与否,要视刑而定:重则逃,轻方就。可在人前,他矢言忠君服刑之事断无商量余地。在发配途中,刘唐请他上梁山入伙,他做出一副宁死不能不忠的样子来,闹得要挥刀自刎。后来因题反诗获死罪,被梁山好汉救出,却闭口不再提陷他不忠的话,而称”不由宋江不上梁山泊”。其实,何尝就到了”不由不”的地步,如果他真以为忠君事大,性命事小,现在自杀为时也还未晚。在宋江眼里,抽象的伦理原则远不是什么”甚于生者”。为了苟活,全可以丢开。可见,他的”忠”是有条件的。
  宋江的”替天行道”常被视为”忠”的表征。这”替天行道”也是句含混话。天之大德曰生,宋江所行的却是杀戮。他从法场得救,要做的头件事就是烧杀:火烧无为军,杀死黄文柄一门良贱四五十人。黄某不管平素为人如何,在宋江一事上无可指责,他仅仅维护了朝廷的利益。退一步讲,即使宋江有理由仇杀,杀的应是黄文柄一人,而不该是合家老小。对此,连称许宋江的李贽老先生也大摇其头,批道”大不是,大不是”。
  宋江忠君的神话还建立在”只反贪官,不反皇帝”的口号上。也不知这贪官和皇帝的界限宋江是怎么分的。不知他践踏的王法,是贪官的,还是朝廷的?他率众攻的城、掠的地、杀的官兵、抢的国库,是贪官的,还是朝廷的?他劝降和逼降的剿捕将领,是贪官的,还是朝廷的?他拉秦明、呼延灼、关胜等人背叛朝廷,抬出的理由是,梁山好汉企盼朝廷招安。可这些人根本不需要绕一个落草——招安的大弯子,他们已是在为朝廷效力。
  宋江受招安是否符合施耐庵本意,现在不得而知,值得关注的不是宋江招安后的行为,而是求招安的心理。我们知道,传统的仕途是”学会文武艺,卖与帝王家”,文不成、武不就的宋江,没有待价而沽的资本,县衙小吏已是他事业的顶点了。可宋江不是安分之人。他言必称忠义,但有两处却显现出心迹:一是得知晁盖等人在梁山做大事业,自言自语流露出艳羡之情;一是酒后题诗”敢笑黄巢不丈夫”。庙堂既然无法靠近,就在江湖上迂回发展。当然,走江湖也得凭本事吃饭,但有个”义士”名头,不啻怀里揣着”铁券丹书”,近可以保身,远可以腾达。待得当上梁山寨主,总算有了与”帝王家”交易的本钱。倒霉的是那些诚心聚义、共襄盛举的异姓弟兄,糊里糊涂就被宋江给卖了。
  宋江的’忠’如此,’义’又何如?义是《水浒传》的灵魂所在,梁山事业的凝聚力就是义气。身为群雄首领,宋江理当为义的表率。不错,宋江在江湖上有’孝义黑三郎’的美名,各路好汉都把他目为义士,对他恭敬有加。然而众人的敬意并非基于各自对他的认识,而是传闻。初见他时,谁也没见他有何义举,难免对他有些无礼。只在听到他是江湖上盛传的’及时雨’时,才倒身便拜。这一套式重复得有点腻味,作者不厌其烦,是为不断提醒读者:众好汉拜服的宋江不是活生生的见义勇为之士,只是’义士’名头的载体罢了。一句话,宋江的威望不是建立在他的行上;然他的名,如我们前面看到,源于施利市恩,与真正的’义’相去甚远。
  宋江和梁山的结义弟兄后来又是如何相处的呢?与宋江关系最为密切的当属晁盖、花荣、李逵诸人。花荣是宋江的心腹,救过他的命,共他患过难。按说,两人可以毫无保留地推心置腹。可如前文提到的,当花荣要给他开枷时,他假惺惺地来一套说教;背着花荣却又私除行枷。李逵是一条血性汉子,对朋友忠贞不贰。他讲到母亲不幸死于虎口落泪时,宋江一厢却大笑起来,接着说:山寨得了新人,’正宜作庆’。一次,李逵求战被宋江喝止后擅离梁山,宋江就认为他’多管是投别处去了’。小人之心,由此昭然。
  最能看出宋江为人的是他和晁盖的关系。晁盖是他的’心腹弟兄’,他曾担着’血海也似干系’给晁盖通风报信,后来晁盖也曾两次率领人马赶来救他的性命。宋江得救时向晁盖发誓,要’死心塌地,与哥哥同死同生’。实际又如何呢?
  宋江一入伙,就甩开晁盖更改梁山体制。梁山的秩序是以交椅排名次,这既是才能功劳的体现,也是发号听令的依凭。宋江头件事就是废除旧法:功不分高下,让旧头领坐主位,新头领坐客位。这一安排乍看无关紧要,实则不然。晁盖的原班人马是旧头领,宋江交结的是新头领。本来一到梁山,大家便是兄弟,不分你我,聚集在寨主晁盖的麾下。宋江硬要分宾主,貌似谦逊,骨子里却咄咄逼人。旧头领总共才九个人,新的多达二十七人。这样一来,就把晁盖和占多数的新头领隔开了。我们不妨设身处地想想晁盖的处境:他率众千里跋涉,救宋江归来,又得了众多好汉,本是一桩盛事。庆功席上,被宋江这么一搅,两列好汉,众寡悬殊,壁垒分明,连视觉重心也严重倾斜,晁盖居中,安能端坐?下面新头领的喧嚷反衬出零零落落几个旧头领的寒碜,身旁又是顾盼自雄的宋江。对晁盖来说,这哪里像庆功,简直是受罪。
  宋江不以山寨大义为念,把梁山新头领视为己有,不让晁盖染指。每有战事,辄言’哥哥是山寨之主,如何可便轻动?’一句话便把晁盖冷置起来,使他一指挥不得新头领,二结识不得新好汉。宋江出战,新得的人越多,旧头领的比例越低,晁盖的影响力便越弱。
  议打曾头市时,宋江却破例没有劝阻晁盖,甚至出现风折军旗的凶兆,也不吭一声。以前宋江遇险时,晁盖总是倾寨出动前往救援;此番晁盖涉险,宋江只’密叫’戴宗尾随探听消息。晁盖中毒箭受伤,却迟迟不见梁山赶来相救。
  当然宋江并未直接陷害晁盖。但是在他营造的氛围中,轮不到晁盖打有惊无险的安稳战,打险战是晁盖亮相的前提。晁盖不会不知,风折认旗不利于主将,但他不愿放弃惟一的出战机会。晁盖受伤,是因为当前锋。出事前林冲力劝他到后面接应,他答道:’我不自去,谁肯向前!’八个字里,透出多少心酸和无奈。堂堂一寨之主,令不能行,只好自己在前杀开一条血路!宋江隔离策略成功之日,便是晁盖丧命之时。晁盖中箭后,’死拼’救他的全是几个旧头领。晁盖身危之际,宋江既不求医也不问药,惟’守定’在床前哭——等到他人死。
  晁盖也许是第一个(惟一一个?)看透宋江为人的。本来宋江是晁盖的恩人,宋江一上梁山,晁盖便要让位给他。可后来晁盖临终时却又嘱咐:捉得仇人史文恭者为梁山泊主。其遗愿分明是不许宋江继位。
  晁盖生时,宋江不以忠义事之;晁盖死后,宋江还要背叛他一次:他背弃晁盖的遗嘱,算尽机关,攫取梁山权柄。山寨本不可一日无主,有晁盖嘱咐在前,梁山泊理当墨出兵,立即为晁盖报仇,然后拥立新寨主。宋江却’每日领众举哀,无心管理山寨事务’。寨中事务一乱,大伙只能推他出来收拾。这招果然奏效。宋江一坐到主位,即刻发了一大通号令,把山寨大小事务安排得有条不紊,哪像是哀恸过度乱了方寸之人!
  不过,宋江现在只算摄政,晁盖的遗嘱还横在那儿。宋江一边延缓报仇,一边盘算着下一步棋。一日闲话时有人提起卢俊义,宋江猛的计上心来:’梁山寨中若得此人时,小可心上还有什么烦恼不释?’宋江究竟有何烦恼?是晁盖遇害、大仇未报吗?不是,宋江从不言为晁盖报仇。梁山泊后来攻打曾头市,却是为了夺马。曾头市失利请和,宋江同意罢兵,条件是曾头市交出照夜玉狮子马,而非仇人史文恭!最后晁盖大仇得报,多亏宋江’死要’那匹千里龙驹。可见,他的烦恼另有因由,后来种种迹象表明,晁盖的遗嘱才是他的烦恼所在。而’玉麒麟’正是消除他烦恼的吉祥物。
  晁盖遗嘱把宋江降为’众弟兄’之一:捉得史文恭者为寨主,宋江得与几十条好汉单个竞争。宋江旧日威风基于倚众恃强;按遗嘱做,他就无力可借,无势可乘。如果来一个有望当寨主的新人,他烦恼的死结就会解开。当然不是宋江有意让位给他人,而是树一个假想敌。有了卢俊义这个’竞争对手’,宋江就摆脱了与数十人争位的困境。原来的争位局面是多极的,宋江虽为一极,但绝无优势。请来有竞争实力的卢俊义,格局就变了。多极一下子变成两极:非卢即宋。其实,卢俊义本无意与宋江竞争,只是宋江频频让位,硬是把卢俊义塑造成假想敌的形象。宋江抬高卢俊义,是不让众好汉出头;逼卢俊义扮假想敌角色,又是拉拢众好汉为自己出力。这一压一拉,梁山众好汉不知不觉就被排除出角逐之列,沦为宋江得位的工具。宋江下了卢俊义这个棋子,争位的死棋就活了:众多的竞争对手成了他的支持者。这样一来,就算卢俊义是强龙一条,也敌不过宋江这地头蛇了。这一招实在高明:宋江先利用卢俊义压服众好汉,再利用众好汉反制卢俊义。怪不得宋江一直放着梁山榻边的仇敌不管,千方百计要卢俊义上山,甚至不惜一再调兵遣将过州冲府远征千里之外的大名府!
  后来攻打曾头市,卢俊义不得做前部先锋;而其他好汉捉得史文恭,功劳便算在宋江名下。不巧的是,仇人撞到卢俊义手里。按晁盖遗嘱,梁山要尊卢俊义为寨主。可宋江偏要’商议’立寨主之事。所谓’商议’,就是说此事还有待定夺。他虽提到晁盖遗嘱,也推卢为尊,但所列的理由却是,论相貌、出身、才干,梁山众好汉谁也比不上卢。这实在是以退为进,挑拨离间。假如宋江诚心拥立卢俊义,何须多费口舌,遵遗嘱办即可。这本是一件极明白的事,被他缠来绕去,弄到要拈阄打两州府。晁盖的遗愿于是乎蜕变成形同障眼法的儿戏。最后通过作弊,宋江名正言顺坐上了梁山泊第一把交椅。
  宋江是个成功人士。他盗忠义之名行不义之实,之所以成功,是因为众好汉未能看穿他的权诈。可悲一百多条汉子栽在这么一个人手里而不自知:是他们的淳朴和忠义成全了伪君子宋江。作者描写宋江得志,其用心不可谓不良苦。
  怅望千秋,萧条异代,身在二十一世纪的今天,我们能不透过历史的灰尘,向梁山群雄长长发一声浩叹?
  二○○三年八月十七日于德国特里尔
  (《水浒传会评本》,陈曦钟、侯忠义、鲁玉川辑校,北京大学出版社一九八一年版)